冗談じゃなくてよかったね

「ただいまー」
 夢の世界越しにかすかに聞こえた声が、髙羽の意識をゆらゆらと浮上させた。
 羂索が近くのコンビニにアイスを買いに行って帰るまでのほんの十数分の間に、どうやらうたた寝をしてしまっていたらしい。
 うっすらと夢から覚めたものの、自分のおんぼろアパートにはないホットカーペットがどうにも目覚めを引き止める。覚醒と夢の間のまどろみというのはどうしてこんなに心地がいいのだろう。

 髙羽はここ二週間ほど羂索のマンションにやっかいになっていた。それもこれも自宅から通っている近場の銭湯が浴槽の修繕とやらでしばらく休業になったせいである。
 風呂無しのおんぼろアパートではあるが台所の給湯器からお湯は出る。とりあえずシンクで身体も洗えないことはないからなんとかなるだろうと、そんな話を羂索にしたら問答無用でマンションに引きずり込まれた。馬鹿なの、阿呆なの、と散々口汚く色々言われたが、こうして自分の部屋に連れてきてくれたあたり羂索はやさしいと思う。正直なところ、髙羽だってすすんでシンクで身体を洗いたいわけではない。
 どんなに仲のいい友達や恋人同士でも一緒に暮らすと粗が見えたり、生活スタイルのちょっとした違いが大きな問題になったりするものである。だから、少しの間とはいえ羂索と暮らすことに一抹の不安もあったのだが(主に自分の存在が迷惑ではないかという点で)、ありがたいことにそれは髙羽の杞憂に終わった。むしろいい意味で予想を裏切られた。
 この部屋で一緒に暮らすまで、ここまで羂索が甲斐甲斐しいだなんて髙羽はちっとも知らなかった。
 自分が羂索の家に上がり込んでいるのだからむしろ自分のほうが何かするべきだと思うのだが、髙羽が何かするよりも前に羂索がすべてを終わらせているのだ。そんなことするヒマがあるなら一本でもネタ書いて、とは言われているけどそれでもちょっと罪悪感が残るくらいの甲斐甲斐しさだ。その様子はいっそ献身的とさえ言えた。普段とのギャップがえぐい。羂索のファンがこの姿を見たら赤面したまま倒れそうだ。今だって流れたCMからちょっと話題にしただけなのに、アイス買いに行ってくれたし。他に買うものもあるからついで、とは言っていたけれどどっちがついでなのかは分からない。
 本当にやさしいなと髙羽は思う。正直、やさしすぎて怖いくらいだ。
 羂索がやさしいことも嬉しいし、今まで知らなかった一面を知れたのも嬉しい。ふたりで四六時中ネタの打ち合わせが出来る喜びや楽しさなんて言葉では言い表せないほどだったけれど、なによりも髙羽にとっては羂索とずっと一緒にいられることが一番嬉しかった。家に帰ってからも誰かと一緒にいるってこんなにしあわせなんだ。銭湯の修繕が終わって元のアパートに戻ったとき、前の生活に戻れるかどうか髙羽は今からちょっと不安だった。

「髙羽、ただいまー」
 いつもだったらすぐ返ってくる「おかえり」の声が聞こえないせいか、帰宅を告げる声がもう一度廊下からした。
 羂索かえってきたんだから起きなきゃ、と思いつつもホットカーペットの温かさがどうにもそれを良しとしない。まるで背中から溶けたみたいに起き上がることもまぶたを開けることもできなかった。
「……髙羽? 寝てるの?」
 廊下とリビングを隔てるドアが開く音がしたあと、羂索が近づいてくる気配がした。がさり、とテーブルに置かれたのはたぶんコンビニの袋だろう。
「おきてる……」、となんとか口を開こうとした髙羽の隣に羂索が腰を下ろす。
 ふ、とまぶたから透ける蛍光灯の灯りが翳った。見下ろされている、というより手を床について覗き込まれてるような感覚。さらり、と羂索の髪が流れる音がかすかにした。
 腫れものでも触るかのようにそっと羂索の手が頬に触れる。外から帰ったばかりのひんやりした手のひらに、ぴくりと自分の肩が跳ねた。
「髙羽……」
 ……ん? なんか雰囲気おかしくない? と思ったときには完璧に起きるタイミングを逃していた。
 起きてます、とも起きました、とも今さら言えなくて髙羽はただ羂索が離れるのを待つしかなかった。たぶん寝てるのかどうか確認してるだけだし、離れたタイミングで「ふぁあ~、羂索おかえり~」とでも言えばいい。そう思っていたのだが、羂索は少しも髙羽から離れる気配がない。というかむしろ近づいてきてる気がする。起きてるかどうかってそんなに密着して確認しないと分からないもん? ってかこれどこまで近づくの? と、どうにも出来ず静かに困っていると、ふにっと唇に何かが触れる感触がした。
(へ……?)
 人間驚きすぎると声も出ないし、身体も固まるものである。だって、経験のない髙羽でも分かる。
 たぶん、これ羂索にキスされてる。
(な、なんで……!?)
 疑問符ばかりがぐるぐるとまわる。だが考えたところでまったく髙羽には分からなかった。羂索の考えなんて分かったことの方が少ないけれど、それにしたって限度がある。
 これってどうするのが正解なんだろう。とりあえず絶対にいま起きたらダメだということは分かる。そういえば俺いま口半開きじゃない? 寝てたやつが突然口とじるのおかしいよね? あと息ってどうすればいいもの? 鼻? 鼻ですればいいの?
 状況も分からなければ、キスの経験もない髙羽はただただ混乱するしかなかった。もうこうなったら早く終わることを願うだけである。
 男の唇でも案外やわらかいもんなんだなあ……、と髙羽は思った。男の唇どころか女の人の唇も知らないけれど。言われなくても分かってる。現実逃避だ。
 髙羽としては永遠にも感じた時間だったが、おそらく十秒もないだろう。最後に頬をすり、と撫でられて唇がふっと離れる。やっと終わった、とほっとしたのも束の間──。
 ぬる、と今度はなにか濡れたものが唇をなぞった。

「っひょぅわぁあ……!!」
「あ、起きた」
 突然起きあがったにも関わらず、羂索はきれいに髙羽を避けた。頭突きすることにならなかったのは不幸中の幸いではあったが、正直そんなことはどうでもいい。
「おおおおお起きらいでか……! ぬめっとしたんだけど! ぬめっとしたんだけど!!」
「そりゃ舐めたからね」
「なめ……っ!」
 キスどころか相方の口まで舐めておきながら、なおも平然としている羂索に二重の意味で髙羽は言葉を失った。え、俺がおかしいの……? ふつう驚くよな、相方にちゅーされた上に舐められたら。ドッキリ? いやでも羂索はこういうタイプの企画嫌いだし、混乱する自分の前にスタッフが「大成功」の札を持って入ってくる気配もない。とりあえず、こんなときはまず深呼吸だ。すー……はー……すー……はー……。なんとか深く息を吸って心臓を落ち着ける。ちっとも落ち着いていないけれど。とにかく落ち着いたって体でいく。思い込みって大事だ。
「……い、いいか、羂索。いくら冗談でもやっていいことと悪いことがある」
 もちろん言うまでもないが、今回は後者である。
 くそー、俺の初ちゅー。大切に取っておいた……ってわけじゃないけれど。単純に機会がなかっただけだけど。それにしたって冗談で取られていいものでもない。せめてちゃんと自分のことを好きな人としたかった。
「へぇ、冗談じゃなかったらいいんだ」
「……へ?」
 少しは反省や謝罪の言葉が出てくるかと思ったが、返ってきたのは予想斜め上もいいところの返答だった。
 びっくりして目をしろくろさせている髙羽を置いて、羂索は目を細めて薄く笑いながら言葉を続ける。
「髙羽の言い分で言うと、本気だったらいいってことになるね」
「え、え……?」
「私も冗談であんなことをする趣味はないよ」
 にっこり、という擬音が後ろに見えそうな顔で羂索が笑った。
 さ、買ってきたアイス食べようか、と混乱を極める髙羽を尻目に羂索はスプーンを取りにキッチンの方へ行ってしまった。なにやら楽しそうな羂索とは裏腹に、髙羽だけが何も分からぬまま置き去りだ。
 じょうだん……じょうだんだよな……? じょうだんじゃないの……? え? じょうだん、じゃなかったらさっきのあれはなんだったんだ……? ほんき……? ほんきって、…………なにが?
 ちゅー、じょうだん、ほんき、と羂索の言葉と触れた唇と舌の感触がぐるぐると髙羽の頭をまわる。羂索がキッチンから戻ってきてもそれが止むことは一向になかった。

 そのあと食べたアイスの味を髙羽はまったく覚えていない。


もちろん羂索は髙羽が起きてるって分かってやってます。

20240130