──どうしてこうなったんだっけ……?
熱で浮かされた頭で髙羽は、ぼうっとそんなことを考えた。
背中に当たる玄関のドアの冷たさはもう過去のもので、今は背どころか身体の外も中もどこもかしこもぜんぶ熱い。
くちゅ、ちゅ、と自分と羂索の口唇の間で濡れた音が滴る。
絡められて、吸われて、なぞられて、羂索の舌が自分の口内をくすぐるたびにまともな思考が溶けていった。
今日は別になんてことのない一日だったはずだ。
朝、二人のマンションまでマネージャーが車で迎えに来てそのまま局へ向かうのはいつも通り。そして、これまたいつも通りレギュラー出演している朝の帯番組の仕事をこなし、その後は別の局の街ブラロケの収録のためにまた移動。正午にはその収録を終え、お昼を軽く取ってそのまま劇場に向かい、ライブをして、夕方からは特番収録のためにまた局へ。
忙しなくはあったが、思い返してみてもやはり特筆して何かがあった一日ではない。
特番の収録の後も別に羂索に変わった様子はなかった。五時間近くに渡る収録をなんとか終え、朝からみっちりと詰まったスケジュールに体力と気力を削られながらも、充実感で身体をいっぱいにしてマンションに帰宅し、二人で何気ない話をしながら自分たちの部屋に向かい、玄関のドアを開けて、それで──、
「──髙羽」
なに? と答える間もなく、くぐったばかりのドアに背中を押しつけられて羂索に口唇を塞がれたのだ。
それからずっと髙羽は羂索に口づけられている。
ねじ込まれた舌に、驚きの声も呼吸も奪われて早十分。いや、本当のところ十分かどうかは分からない。五分かもしれないし、もしかしたら二十分かもしれない。いずれにせよ、体感としては永遠にも等しい時間だった。
「……っぅ、は、ぁ……っ、ん、ん……っ」
煽られて、高められて、口の中だけではなく、羂索が触れているところ全てが熱くていい加減ばかになりそうだ。
今にも崩れ落ちそうな身体を支える腕に、頬や首筋に触れる手。ただ触れているに過ぎないそこからもじんじんと熱が広がっていく。
髙羽にはどこで羂索に火がついたのか分からない。
確かにこの五日間くらいは朝から深夜までスケジュールがびっちりであまり恋人らしい触れ合いはできなかった。家でくっついたりなんだりのスキンシップはしていたけれど、キス以上のことはしていない。これは体力が、気力が、時間が、という問題ではなくキスをしてしまうと問答無用でそれ以上のことに雪崩れ込むからだ。仕事が詰まりに詰まった状況でそんなことはできなかった。明日の仕事を踏まえて、なんて加減できるのならいいのかもしれないけれど、それは自分にも羂索にも無理な相談だ。一度身体を繋げたら最後、絶対に際限なく求めてしまう。どちらか片方だけじゃなく、二人ともが同じ気持ちだから、止まるはずも止められるはずもない。それが分かっているから、ここ数日は軽いスキンシップにとどめていたのだ。過去に、仕事を飛ばさないまでも翌日の髙羽の身体に無理をきたしたことがあったので、二人の中でそれは暗黙の了解になっていた。
でも、もしかしたらそれが悪かったのかもしれない。
髙羽には羂索がそんなに我慢をしている風には見えなかったけれど、本当はそうではなかったのかもしれない。知らない間に我慢を強いた結果がこれなのかもしれない。考えたところで、何ひとつ髙羽には分からないのだけれど。
羂索の舌と熱に翻弄されながらそんなことを考えていると、不意にぢゅっ、とひときわ強く舌を吸われた。
「っ、んぅ……!」
よそごとを考えているのが伝わったのか、薄く目を開けると滲んだ視界にこちらを射抜く羂索の瞳が見えた。
猛禽のようなそれから逃げるようにぎゅっともう一度目を閉じると、逃さないとばかりにまた舌を吸われる。
吸われて、食まれて、絡められて。
よそ事なんて考えられないよう、髙羽のなかに自分以外のものが入らないよう、羂索から与えられる溺れそうなほどの濃密な交わりに身体がますます熱を帯びていく。
「……っふ、……ぅ、ん……んっ」
──熱い。
ぬるぬると合わせられる粘膜が気持ちいい。熱くて、熱くて、苦しいほどなのに、羂索の熱が口内をくすぐるたびにぞくぞくと甘い痺れが走った。
味蕾のひとつひとつを確かめるように羂索の舌が髙羽のそれに絡んでは、じりじりとなぞってすべっていく。
羂索の動きは決して性急なものではない。奪うようなものでもない。
でも確実に髙羽を犯していく羂索の熱。
とろ火で煮込まれるようなそれに、髙羽はただ翻弄されることしかできなかった。
「……っ、ん……ぅ、はっ……ぁ……」
ぎりぎりを保っていた身体が限界を迎えてずるずると床に落ちていく。
羂索の唇が、舌が、自分を追って、わずかに出来た隙間も瞬きのうちに塞がれた。上から与えられるようになった口づけに、髙羽の中はますます羂索でいっぱいになっていく。
ドアを背もたれにしながら、とうとう座りこんでしまった髙羽のなかはもうこれ以上ないほど羂索で満たされていた。それでもまだ足りないとばかりにぬちぬちと与えられる熱に、髙羽の視界が白んでいく。
縋りたいのか止めたいのか自分でも分からぬまま、くしゃりと羂索の上着を握りしめると、ぢゅっともう一度強く舌を吸われた。名残り惜しむように絡んで、絡んで、混ざり合って──。
「……はっ、ぁ……っ」
それを最後にようやく唇が離れた。
解放されて、ちかちかと白んだ視界に段々と色が戻っていく。息も絶え絶えになりながら、目蓋を開けると、潤んだ視界に二人を繋いでいた銀糸がうつった。ぷつり、とかそけなく途切れたそれに身体のどこかがしくりとなく。
「……髙羽」
「──っ」
だが、その切なさは熱のこもった声によってすぐにかき消された。耳をくすぐる掠れた声に、勝手に身体が跳ねる。呼ばれた名に視線を上げれば、まっすぐにこちらを見つめる羂索がいた。
「ぁ…………、」
声に、瞳に、ぞくりと背筋が震える。制御できない熱がまた高ぶる。
羂索の顔がもう一度近づく。
羂索の手が頬に触れ、首筋を滑って、期待に満ちた身体にぐるぐると熱がわだかまっていく。唇が触れるまでもうあとほんの少し。視界が羂索でいっぱいになる。否が応でも先ほどの行為の続きが予感されて髙羽は目をつぶった。羂索の吐息が耳をかすめて、そして──。
「どう、満足した?」
「…………へ?」
涼やかな羂索の声に、さっきまでの空気がぱちんと弾けた。
耳元をくすぐっていた吐息が離れて、思わず目を開けたその先には、いたずらげにこちらを見る羂索がいた。先ほどまでは火傷しそうなほどの眼差しでこちらを見つめていたのに、そんなものはもう羂索のどこにもない。
夢まぼろしのように突然消えてしまった空気にも、すっかりいつもの様相に戻ってしまった羂索にもついていけず、髙羽は目を白黒させるしかなかった。そんな髙羽に羂索は涼しげな笑みを浮かべて言う。
「したかったんでしょ、キス」
「……え、え?」
「え、ってそんな不思議そうに言うこと? あ~んなに熱烈に見つめてくれちゃってさ」
「……み、見つめてって……俺、なんか見てた……?」
意味深にそんなことを言われても髙羽にはなにがなんだか分からない。すがるように問いかけてみても、「見てた、見てた。すっごい一途に。見られてる方が燃えちゃいそうなくらい熱っぽくね」と羂索はなんだかやたら楽しそうに言うだけで、髙羽の質問に明確には答えてくれなかった。
的を得ない羂索の答えに髙羽はますます困窮するばかりだ。ばかりだけれど、羂索がこう言うからにはきっと何かあるのだろう。そう思い、がんばって頭を働かせてみたが、がんばったところで熱でふやけた頭がまともに働くわけもなかった。それでも何とか答えを導き出そうとうんうんと半ばパニックになりながら考えていると「えーここまで言ってもまだ分からないの?」と、羂索から賢しら声が降ってくる。
「……わ、わかんない」
「全然、全く、微塵も?」
「ぜんぜん、まったく、……みじんも」
「もうしょうがないなぁ。じゃあヒントね、朝。カーナビ。キスの日」
「う、ぇ……………………あ、……あ、……あ゛ぁ゛~~~~」
ヒントというよりほぼ答えそのものを与えられてようやく髙羽は羂索の言わんとしていることが分かった。
確かに、見ていた。今日、自分は羂索の唇を見ていた。確実に、見ていた。
でもそんな、絶対に羂索の言うように熱烈になんかは見ていないはずだ。度合いとしてはちら見程度。そのちら見もおそらく二、三回。それもたぶん、朝のうちくらいだけ。一日中は見ていない。だって、忙しくて途中からそんなことすっかり頭から抜けてたし。いや、もしかしたら無意識に見てたかもしれないけど。絶対に見てないとは言えないけれど。
頭の中でぐちゃぐちゃと誰に対してかも分からない言い訳を並べ立てる。いっそ知らないままでいたかったが、羂索の言葉の意味も、行動の意味も、先ほどの答えでよく分かった。分かってしまった。こういう時だけ羂索は嫌にやさしくて親切だ。ネタ出しの時なんかはスパルタで、髙羽が一回ネタを作り終えるまでヒントも何もくれないのに。
ことの発端はマネージャーの車──というか、車についているカーナビだった。
昨今のカーナビには道案内をするだけじゃなく、色んな機能がついている。スマートフォンと連携したり、テレビが見れたりは当たり前で、機種によりけりではあるが、ひと昔前では考えられなかった種々雑多な機能がある。
そして、件のカーナビについているのが〝今日は何の日?〟という機能だった。エンジンをかけてカーナビを起動すると「今日は○○の日です」という雑学を教えてくれるのだ。
なんてことはない機能だし、特筆して売りになる機能でもない。とはいえ、ラジオなどで日々トークのネタを探している髙羽はそれなりに重宝していた。
そのカーナビから今朝、流れたアナウンスが「今日はキスの日です」だったのだ。
先述した通りこの五日間、自分と羂索はキス以上のことはしていなかった。二人の間にあったのは抱きしめたり、くっついたりのスキンシップだけ。もちろんそれに不満はない。髙羽だっていい大人だ。節度はわきまえているし、ただそれだけの触れ合いだって充分に自分を満たしてくれた。
でもそれを聞いて、羂索と最後にキスしたのいつだっけ? と髙羽が思ってしまったのも事実だった。ほんのちょっと、本当にちょっとだけ、キスしたいなぁと思ったのも。だから、何度か羂索の口元を見ていた自覚はある。あるけれど、でもまさか自分のそんな些細な行動がこんなことに繋がるなんて。今さらながら羞恥が湧いてきて、先ほどとはまた違った熱がじわじわと顔に集まる。
もしかして、気づいていなかっただけで自分はそんなに分かりやすく羂索を見ていたんだろうか。誰から見ても分かるほど物欲しそうな目をしていたんだろうか。
何度か見てしまった自覚があるのは朝のうちだけ。だから、それ以降の自分の無意識の行動など分かるはずもない。
今日一日のことを思い返してみれば、あれもこれも危うく思えてくる。羂索と話をしていたとき、不意に目があったスタッフはどんな顔をしていたっけ。もしかしてマネージャーにも気づかれていたんだろうか。考えるだに恥ずかしくて、死にそうになる。
「お、俺そんな分かりやすく見てた……?」
「そうだね、君のプロである私が分かるくらいには」
「………………えっ、と……それは、オマエにしか分かんないくらいってこと?」
髙羽の言葉に羂索は何も答えなかった。ただただ意味ありげに笑みを深くするだけだ。
結局、顔に熱が集まるのは止められなかった。笑みで返された無言の肯定にすこしだけ気持ちが救われたけれど、それでも羂索に見抜かれていたら同じことだ。
──自分じゃなくて、羂索が我慢できなかったんだと思っていた。
己はちゃんと自己を律していて、スキンシップだけで不満はないと。
でも、そんなのはただの欺瞞でしかなかった。
自覚していなかったそれを羂索に見透かされて、分からせられて、自分では羂索を欲している自覚がなかっただけに余計に恥ずかしい。
羞恥で顔どころか、耳も熱い。穴があったら今すぐ埋まりたかった。でもそんな都合のいいものはどこにもない。髙羽にできるのは膝に顔を埋めることだけで、たたただ煩悶するしかなかった。
声もなく羞恥に耐えていると「ねぇ、髙羽」とやたらやわらかい声が聞こえた。おずおずと髙羽が顔を上げると、そこにはやっぱり憎らしいほど楽しそうな笑みを浮かべる羂索がいる。
「で、満足した?」
「ま、満足って……」
「私はできる恋人だからね、君が望むことは何でもしてあげたいと思っているし、君が望まないことは何もしないよ。だから君がもう充分っていうのならこれで終わりだ。余計なことをして君に嫌われたくないし、しつこい男だとも思われたくないしね。だから、ちゃんと確認したくて。ねぇ、髙羽、君は満足した? もちろん遠慮なんかしないでいいよ。なんでも正直に言って欲しい。もしこれで君が満足だというのなら、私も満足だ。だって君のしあわせが私のしあわせなんだもの」
羂索が白々しい顔ですばらしく白々しいことを言う。できる、できないで言えば確かにできる恋人なのかもしれないが、ベッドの上で髙羽がイヤだと言って止まったことが何度あっただろう。でもそれ本当にイヤだと思って言ってます? と訊かれれば髙羽も口を噤むしかないのだが。
素直に言うべきか、未だ残る羞恥心のために口をつぐむかほんの少しだけ悩んだけれど、考えるだけ時間の無駄だった。
まだまだオフは遠い。明日だって仕事がある。でも幸い、明日のスケジュールはゆったりで夕方に新番組の打ち合わせと夜にラジオの収録があるだけだ。羂索だってたぶんそれを分かって言っている。なにもかも手のひらの上なのが悔しいけれど、今さらと言えば今さらだ。髙羽はにやにやと笑う羂索の首に腕を回して引き寄せるとそのまま、ぎゅっと抱きしめた。
「…………ぜんぜん足んない」
「じゃあもっとキスする?」
「……キスだけじゃやだ」
そう言うと羂索の身体がくすくすと小さく揺れた。楽しげな吐息が耳をくすぐる。でも、触れたのは吐息だけ。唇は今にも耳朶に触れそうな距離にあるのに、羂索は決して直接触れようとしない。髙羽に選択権を与えて、今にも落ちてくるのを待っている。
「なら、どうして欲しい?」
「……できる恋人の羂ちゃんならわざわざ俺に訊かなくてもわかるんじゃねぇの?」
「万に一つも間違いは犯したくないからね。ちゃんと君の口から聞きたいんだ」
とっとっと、とやけに速い鼓動の音が聞こえる。くすぶっていた熾火がまた温度を上げる。自分の身体も、抱きしめた羂索の身体も熱かった。いつもだったらもっとひんやりとしているのに。
もしかして、羂索も一緒なんだろうか。涼しい顔をしていても、自分と同じ気持ちなんだろうか。
期待と恥ずかしさで喉がひくりと震える。みだりがましいし、みっともないと思う。でも、自分だけじゃなくて羂索も求めてくれているなら──。
ただひとつの寄る辺のように髙羽は羂索に回している腕に力を入れた。すがりつきながら、肩口に顔を埋めて言う。
「……俺のなか、羂ちゃんでいっぱいにして」
どくん、と鼓動の跳ねた音がした。
それがどちらから聞こえた音なのかが判然とするより前に、身体が浮遊感に襲われる。
抱き上げられたのだ、と分かったときにはもう床から足が離れていて、思わず顔を上げればそこには目を細めて笑う羂索がいた。
「仰せのままに」
紳士的な言葉や仕草とは裏腹に、その声は喉を鳴らす獣の響きに満ちていた。
遅刻というのもおこがましいキスの日ネタ
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