「ただいま」
誰の声も返ってこない暗い部屋に羂索の声が静かに響く。
持ち帰った紙袋を床に起きながら壁についているスイッチを押せば、天井のライトが朝と全く変わらない様子のリビングを明々と照らした。
パジャマ代わりのスウェットは脱いだ状態のまま畳まれることもなくソファに置かれ、その背もたれには打ち捨てられたようにネクタイがいくつも散乱している。床にはふたりで受けたインタビューが載っている雑誌が投げ出されており、ダイニングテーブルの上には色違いのマグカップがふたつ。その中にはブラックコーヒーとカフェオレが飲みかけのまま、それぞれ残されていた。
いつもだったらスウェットも雑誌もマグカップも家を出る前にちゃんと片づけておくのだけれど、今日ばかりはばたばたしていてそんな暇も心の余裕もなかった。
今さらだ、とは思ったがテーブルの上のカップを手に取る。流しに置いて蛇口をひねれば、流れ出した水があっという間にカップの中を満たした。残っていたコーヒーもカフェオレも、水に薄まって、溢れて排水口に消えていく。放置したせいでカップに移ってしまった染みだけが朝の痕跡を残した。
羂索はもう一度蛇口をひねり水を止めた。
──今さら。そう、すべては今さらだ。
水につけたはいいもののそこから洗う気にはどうしてもなれなくて、羂索は流しに腰を預けると何とはなしに天井を見上げた。
見上げながら、ふぅ、とひとつ息を吐く。
スーツは仕事がら着慣れているが、礼服はどうしても気詰まりがする。大義そうに首元のネクタイをゆるめながら、羂索が視線を下ろすと、先ほど床に置いた紙袋が視界の隅に入った。
改めてその紙袋を見やる。
何物にも染まらない純白の紙袋。今日の主役ふたりの幸福が詰められただろうそれ。幸福に彩られたその白は羂索ひとりだけの部屋には眩しすぎるほどだった。
疲れが滲む重たい足を動かして、羂索は紙袋の中に入っていた四角い包みを取り出した。
ダイニングテーブルの上にそれを置き、椅子に腰掛けて包み紙を丁寧に剥がす。
中に入っていた箱の蓋を開けると、そこには大きな円を描いた焼き菓子──バームクーヘンが入っていた。
羂索の頭に鮮明に今日の髙羽の姿が蘇った。
そして、思う。
今日のことを。
今日の式のことを。
羂索の相方であり、羂索が長年想いを寄せてきた相手──髙羽とその恋人、ふたりの結婚式を。
いい式だったと思う。しあわせそうな新郎新婦。ふたりの結婚を心から祝う親類縁者、先輩後輩諸氏、友人たち。空は高く澄み渡り、天さえも二人の今日の門出を祝福しているようだった。
この世の幸福すべてを集めた空間があるのだとしたら、まさに今日の式がそうなのだと思う。
偕老同穴の契りを交わした新郎新婦は始終仲睦まじく、幸福感に満ち溢れ、その二人の姿は式の参加者全員の顔を自然とほころばせた。
本当にいい式だった。新郎新婦だけでなく、誰も彼もがしあわせだった。そのお裾分けされたその幸福をちゃんと受け取れなかったのは、きっとあの場では羂索だけだっただろう。
自分以外の誰かの隣で笑う髙羽を見て、どうしてしあわせな気分になどなれるだろうか。
それでも羂索は今日笑っていた。髙羽を悲しませないために、髙羽のしあわせを彩ってあげるために。
面白いことに繋がるならともかく、自分の利にならない我慢なんて生まれてこのかた一度もしたことはなかったけれど、それでも髙羽のためならしてやろうと思えた。自分の想いなど押し殺して、今日一日素知らぬ顔をして幸福な参列者のひとりになれると、なろうと──この式に参加すると決めたとき、羂索は決心したのだ。
今日の髙羽はずっと笑って、ずっと泣いていた。みなに祝福され、愛した人の隣に立ち、泣き笑いのその顔は参加者たちの笑顔と涙を誘った。
羂索はただひとり、心を凍らせながら笑っていた。我ながらよくもまあ笑えていたものだと思う。心臓が冷えて止まっていないのが不思議なくらいだった。友人代表のスピーチをにこやかに、最後まで言葉に詰まらずに完遂した自分を誰か褒めて欲しい。
羂索が心を凍らせてまで押し留めた思いは、痛みであり哀しみであり嫉妬であり数え切れないほどの後悔であった。
髙羽が自分以外の誰かの隣にいる姿など見たくもないし、覚えていたくもない。
なのに、忘れたくない。
声も、かたちも、匂いも、温度も、ひとつとして取りこぼしたくなかった。髙羽のすべてを記憶に残しておきたかった。
だって、今日を境に髙羽は自分のものではなくなってしまうのだ。今日のこの日をもって髙羽の隣で笑っていたあの人のものになってしまうのだ。
そもそも告白もなにもしてなかったのだから、髙羽を自分のものだと思うこと自体が間違っている──そう言われれば羂索には反論の余地はない。
それでも今日、式で流れた動画に写っていた髙羽のあの笑顔。あれこそが髙羽が自分のものであった証だと羂索は思った。
そして、同時に自分の過ちにも気づいた。
今の地位を手放すことを恐れずに、誰かに取られる前にちゃんと告白すればよかったのだ。そうすれば、きっと今日髙羽の隣で笑っていたのは自分だったに違いない。
忘れたい。忘れたくない。せめて、式が終わるまでは髙羽は自分のものだったと思っていたい。意気地のない男の無様な悪あがきだ。
今日、式で流れたあの動画を思い返す。
新郎新婦それぞれの生い立ちにふたりの結婚までの道のり。動画に映し出された髙羽の生い立ちを語る写真には、半分以上羂索が写っていた。
羂索と髙羽が出会って八年。髙羽の人生からしたら約三分の一ほどの時間。半分になんて到底及ばない。
でも、髙羽の思う人生の半分以上に自分はいたのだ。過ごした時間以上の日々を積み重ねてきたのだ。
ウェディングムービーだからというのもあるかもしれないが、羂索といっしょに映っている髙羽はどれも嬉しそうで楽しそうでしあわせそうだった。新婦といっしょに映っている姿にも負けないくらい──いや、羂索の目にはそれよりももっともっと輝いて見えた。
髙羽の隣にいる人は、あの中になかった髙羽の顔をいくつ知っているのだろうか。
今日の泣き顔だけじゃない、哀しみに声を上げて泣く顔、悔しさに言葉もなく耐える泣き顔。それらを見たことはあるのだろうか。子どもみたいにぐしゃぐしゃに泣いた髙羽にすがられたことはあるのだろうか。
髙羽と喧嘩をしたことは? 怒った顔を見たことは?
自分はどれもある。笑顔だけじゃない、ここに映っていない泣き顔も怒り顔も、髙羽の顔はすべて鮮やかに思い出せる。
ぜんぶ自分のものだった。自分だけのものだった。自分だけの髙羽だった。
──でも、これからは違うのだ。
ぽたり、と知らず湛えていた涙がテーブルに落ちた。
息が苦しい。呼吸の仕方が分からない。髙羽がいないのにどうして息などできようものか。
こんな思いをするくらいなら玉砕覚悟で告白でもなんでもすればよかったのだ。連れ去って閉じ込めて永遠に自分のものにしておけばよかった。
籠の鳥にしたいわけではない、なんて物わかりのいい男の振りをした結果がこれだ。
髙羽と一緒に生きたかった。自分の隣でずっとずっと笑っていて欲しかった。ふたりでずっとおもしろいことを探して、求めて、やって、やって、やり尽くして、死ぬまで一緒にいたかった。
でも、それはもう叶わなくなってしまった。
視界が滲んですべてがぼやける。この想いも痛みもすべてぼやけてしまえばいい。ぼやけて、無くなって、いつかいい想い出になる日がくればいい。そんな日が来るとはちっとも思えないけれど。
ひとりきりの部屋で、羂索は静かに涙を落とす。
はらはらぽたぽたと、テーブルに小さな水たまりがいくつもできあがっていく。
伝えられなかった想いを涙に変えて、羂索がただただ自分のものではなくなってしまった髙羽のことを思っていると──、
「羂ちゃん、ただいまー!」
ガチャリ、と明るい声とともにリビングのドアが開かれた。
「あー、さすがにつっかれたー! やっぱりいくら午後開始っていっても連泊地方ロケからのラジオ、結婚式のコンボはちょっと無理があったよな。着る服すら準備できてなかったからすげぇバタついたし、遅刻しなかっただけでもまだ良かったけどさぁ。それにしても良い式だったなぁ、体力的にはかなりしんどかったけど新婦さんきれいだったし、あいつもすげぇしあわせそうで、ほんと無理にでも参加してよかっ、た…………って、え……どしたの羂ちゃん……? なんで泣いてんの……?」
「おかえり、髙羽」
「あ、うん、ただいま……って、いや、そうじゃなくて、なんで引き出物のバームクーヘンテーブルに置きながら泣いてんのって話で……」
「ちょっと、あまりにイメージが上手くいきすぎて……」
「イメージ?」
「私が君に告白しなかったせいで、誰かのものになった君がその誰かと結婚式を上げるイメージ。友人代表スピーチをする自分の姿を添えて、みたいなの」
「なんでそんな意味のねぇ想像してんのよ……」
「そう? そうでもないと思うけど。それなりに有意義な時間にはなったし」
「……?」
羂索の言葉に髙羽が疑問符を浮かべた。
確かに、これから先の未来の想像をするならいざ知らず、過去の事象を改変してあり得ない今を想像するのは意味がないといえば意味がない。しかし、今回ばかりはそうでもなかった。己への戒めとしてはかなりの効力があった。
想像上の出来事とはいえすべてがあり得ない想像妄想から生まれたわけではない。羂索が髙羽に長年想いを寄せていたのは紛うことなき事実だし、想いを煮詰めて煮詰めて煮詰めすぎたせいで告白に踏み切れなかったのも事実だ。
髙羽には想い人がいるのでは……? という誤解と誤認とすれ違いと思い違いから生まれた悲劇(ちなみに端から見たらあれは間違いなく悲劇じゃなくて喜劇だった、とは後に周囲の人たちに散々言われた)の末に、羂索は半年ほど前ようやくこじらせまくった初恋を成就させた。だが、たぶんあのような事件がなかったら自分は未だうごうごと行き場のない想いを煮詰めていただろう。
だから、あり得ない想像ではないのだ。きっかけがなかったら、あのとき恥も外聞も取っ払ってなりふり構わず髙羽の手を取っていなかったら、想像のような現実が起きていたかもしれない。髙羽の隣には自分以外の誰かがいたのかもしれない。
それに、これからだってないとは限らないのだ。する気もないし許す気もないしさせる気もないけれど、何かをきっかけに恋人という関係が解消されてしまう日が来るかもしれない。恋人から伴侶へのステップアップだったら羂索も望むところだが、ただの相方や知人に戻るのだけは絶対に嫌である。想像だけで呼吸の仕方を忘れるほどなのに、これが現実となったら自分でもどうなるか分からない。もしかしたら、別れを切り出された瞬間に心因性の心不全でショック死するかもしれない。振られた瞬間にショック死する人間がいたら確かに面白いだろうとは思うが、そんな面白いは願い下げである。羂索は髙羽と一緒に面白いことを見たり、したいのであって、ひとりで彼や世間に面白いを提供したいわけではない。
つまり想像の自分をもって、ああはならないようにいっそうの努力に励もう、髙羽と今世も来世もずっと共にいられるように日々言葉と愛情を尽くしていこう、と羂索は気持ちを新たにしたのだ。
というわけで、髙羽から見たら意味はなくとも、羂索としては意味のある時間ではあった。
そんな羂索の心情を知らない髙羽は、相変わらず眉根を寄せながら疑問符を浮かべている。だが、いくら頭をひねったところで自分に羂索の考えなど分かるわけがないと結論づけたのか髙羽は「まぁ、いいか」と言ってバームクーヘンの箱に手をかけた。
「なー羂ちゃん、開けたんならせっかくだしこのバームクーヘン食べようぜ? なんか俺、お腹空いちゃった。羂ちゃんなに飲む? お茶? コーヒー?」
そう言いながら髙羽はキッチンにバームクーヘンを運んでいく。結婚式で確かに料理は出されたが、量はそこまでではなかったし、泣いたら小腹も空いた。羂索も髙羽の言葉に否やはなく「じゃあお茶にしようかな。お茶は私が淹れるから君はそれ切って」と言うと、乾きつつある涙を拭いて髙羽の隣に並んだ。じゃあ俺もお茶ー、という髙羽の声に応えながら置きっぱなしにしていたマグカップを洗っていく。淹れるといっても急須なんてこの家にはないので、お茶はティーバッグだ。煮出している間にフォークと皿を用意する。細々手を動かしていると、ふと、今さらながらにひとつの疑問が浮かんだ。「そういえばさ」
「うん?」
「君、帰ってくるのやたら早くない? 二次会行ってきたんでしょ、途中で抜けてきたの?」
「…………あー」
バームクーヘンを切り分ける準備をしている髙羽に問いかけると、何故か彼は気まずそうに言葉を彷徨わせた。
今日の結婚式は新郎の友人として呼ばれたものだった。
主役の一人である新郎は養成所時代からの髙羽の同期で長年苦楽をともにし、親しくしてきた人物である。色々あり一事、疎遠になったこともあったらしいが、今となってはその様子は見る影もない。その当時の話が持ち上がっても、お互いとがってたよなぁ、と口を揃えて笑うばかりである。最早、ふたりにとってはいい思い出のひとつなのだろう。自分にはよく分からないが、養成所時代からの同期というのは友人というよりも戦友というものに近いのかもしれない。
だから、招待された側の髙羽としても、今日の結婚式はただの友人知人以上の想いがあったのだろう。
式の間中、髙羽はこの結婚を自分のことのように喜び、顔をべちょべちょにしながら嬉し泣きをし、ふたりのしあわせを心より祝っていた。
そんな関係の新郎の結婚式なので当然のごとく髙羽は二次会にも参加した。
羂索はといえば、確かに相方兼恋人の友人ということで新郎のことは知らない仲ではないが、かといって二次会に参加するほどの想いはない。それに連日の仕事からの結婚式への参加でそれなりに疲れも溜まっている。
なので、髙羽とは式場で別れて先に羂索だけマンションに帰ってきたのだが、二次会に参加したわりには帰宅が早すぎる。途中で抜けたにしても、時間から考えて一時間もいなかったのではないか。
羂索としては当然の疑問だし、髙羽が気まずそうにする理由も分からない。なのに髙羽は羂索の隣でやたらまごつきながら言葉を探している。先ほどの髙羽と代わったように羂索が疑問符を浮かべていると「……えーっと、その、」と、髙羽が訥々と口を開いた。
「……俺もな、そんなに早く抜けるつもりはなかったんだよ? ちゃんと最後までいるつもりだったし、二次会がつまんなかったわけじゃないしすげぇ楽しかったし、久しぶりに会えたやつもいっぱいいたし、改めてあいつともゆっくり話せたしさ」
そう話す髙羽の耳がじわり、と赤くなる。
「でもさー、しあわせいっぱいで惚気けていちゃついてるふたり見てたらさ、……なんか……その、早く羂ちゃんに会いたくなっちゃって」
髙羽が顔と耳を赤くして、頬をかきかきそんなことを言う。
「だから、すぐ抜けてきちゃった」
へへ、とこちらを向いてはにかむ髙羽に思わず羂索の息が止まった。
そうか、ショック死ってこういう方向のショック死もあるのか、と羂索は人ごとのように思った。びっくりした。可愛すぎて心臓が止まるかと思った。
消化しきれない髙羽の可愛さを前にただただ羂索が固まっていると、いつの間に切り分けたのか「はい出来た! これ羂ちゃん分な」とバームクーヘンを皿にのせて髙羽が手渡してくる。
「ほらほら、早く食べようぜ。絶対うまいって。このバームクーヘンふたりで拘って選んだらしいよ」
慣れないこと言った恥ずかしさを誤魔化すように、髙羽がぱたぱたと席につく。固まる羂索を置いて、髙羽は椅子に座ると「いただきます!」と、ぱんと手を合わせてフォークを手に取った。
「──髙羽」
髙羽より一呼吸も二呼吸も遅れた羂索がのそのそと椅子に座る。まだまだ赤みの残る頬をバームクーヘンでいっぱいにしながら髙羽が上目遣いでこちらを見た。
「ふぁに?」
「あのさ、バームクーヘン食べて、お腹いっぱいになって」
「うん」
「食器片づけて、お風呂入って、着替えて、後はもう寝るだけの状態にしたらさ」
「……うん」
「君の望み通り、今夜はベッドの上でいっぱいいちゃいちゃしようか」
「……俺、そこまで言ってねぇよ?」
ごくん、と口のなかのものを飲み込んだ髙羽が赤い顔でそんな可愛くないことを言う。
天邪鬼なその反応は羂索にとって予想の範疇ではあったけれど、求めていたものとは違ったので「なに、したくないの?」と、意地悪く返すと髙羽は案の定、う゛~と唸った。
そのままあっちを見、こっちを見して羂索の視線から逃れようとする髙羽の心の内はあまりにも分かりやすい。でも、ちゃんと言葉にして欲しかったので羂索は辛抱強く待ち続けた。
うろうろと逃げ続けた視線がようやく合う。「……ぁ、ぅ」と悪あがきのように呻いたのち、髙羽はすこし俯くと、
「…………したい、です」
と、消え入りそうな声でちいさく言った。
ちいさくてもしっかり届いた声に羂索は笑う。
そんな羂索に髙羽が拗ねたような顔をする。
その日の夜は、新婚初夜の夫婦にも負けないくらい甘ったるいものとなった。
たぶんベッド行く前にこの二人お風呂の段階でもういちゃついてると思います。
20240920