「わ、忘れてくれ……!」
昨夜自分が何をしたのか思い出した瞬間、髙羽は勢いよく床に手足をつき羂索に向けて頭を下げた。
床に伏せる髙羽の顔は血の気が引いて、手はうっすら震えている。まるでこの世の終わりを告げられたかのような様子だ。
だが、昨夜あったことは髙羽にとってはそれ以上にあってはならぬことだった。
頭を下げる前にかすかに見えた羂索の表情が驚きだったことに少しだけ安堵する。だけど、今どうなっているかは分からない。汚いものでも見るかのような目をしているかもしれない。醜態を晒した自分に呆れきっているのかもしれない。
昨日まで戻れるなら何を差し出しても戻りたい。しかし残念ながら時間はどうやったって不可逆だ。髙羽がどれだけ悔やんで嘆いても、昨日しでかしてしまったことをなかったことはできない。
酔っていたとはいえ何であんなことをしてしまったのだろう。
──告白するつもりなんて、一生なかったのに。
昨夜は、羂索のマンションで二人で小さな祝賀会をした。
ぽつぽつとだが仕事がもらえるようになってから数ヶ月。上手くいくことばかりじゃなくてもちろん失敗もそれなりにあったけど、つい先日その成果として帯番組のレギュラーコーナーの仕事が決まった。
たかだか十分くらいの小さなコーナー。でも、嬉しかった。ちゃんと今までの自分たちの仕事ぶりが見てもらえたことが、努力がきちんと形になったことが、羂索と重ねてきた日々がこうしてしっかりと実を結んだことが嬉しかった。誰にも見てもらえないかも、なんて腐らずに羂索と一緒に精一杯やってきて本当に良かった。まだまだ声を大にして売れているなんて言えないけれど、髙羽にとっては大きな一歩だった。
けれど、だからといってそれで飲みすぎてしまったなんて言い訳にならない。ならないが、その嬉しさで昨夜の髙羽がしたたかに酔っていたのもまた事実だった。いつになくぱかぱかと缶を空けた自覚はあるし、そのせいでふわふわとした気分で思うままに口を開いていた覚えもある。
──けんじゃく、ありがとう。いつもおれといてくれて。おれとコンビやってくれて。けんじゃくといっしょにここまでこれたのすげぇうれしい。けんじゃく、だいすき。けんじゃく、けんじゃく。
そんなことを言って羂索に絡んでべたべたくっついていた。
羂索が酒で記憶を失くすタイプだったらまだ良かったのだが残念ながら羂索のアルコール耐性は高く、記憶を失くしたことはこれまで一度もなかった。そもそも昨日の羂索はそんな相方を止めるためか髙羽ほどには酒に手をつけていなかったように思える。
ただ好きだと告げただけならまだ相方として、などと言って誤魔化せた。
しかし、キスまでしてしまってはもうどうやっても誤魔化すことは出来ない。
「おれね、けんちゃんのことほんとにすき。だいすき。せかいでいちばんすき~」
「はいはいありがとう、嬉しいよ。酔ってるとはいえ好きの大安売りもいいところだね。簡単に言えるあたり君のそれは相方としての好きとかそういうのだろう」
「あいかたとして……?」
「キスとかセックス込みの好きじゃないだろって話」
「ん~? おれのすきはねぇちゅーできるすきぃ~」
いっそ夢だったら良かった。
そう思い込みたい髙羽の気持ちをたったひとつの熱が邪魔をする。
どれだけ願ってもあれは夢にはならない。夢じゃない。
だって、髙羽は触れた羂索の唇の感触を覚えている。
「へへ、うばっちゃった~」
羂索は酔っ払いの戯言に付き合っていただけなのに、そんなことにも気づかずに髙羽は羂索に口づけた。
あのとき羂索は本当に驚いていた。珍しく目を丸く見開いて、言葉もない様子だったのだ。
本当に、なんであんなことをしてしまったのだろう。
触れるだけの児戯のようなキスだったがキスはキスだ。一方的に口づけたのには変わりない。きっと不快だったはずだ。ただの相方だと思っていた相手にそんなことをされるなど、夢にも思っていなかっただろう。謝っても許してもらえるようなことじゃない。
さらに最悪なのはそこから先のことを髙羽があまり覚えていないことだった。そこから自分がどうしたのか、いまの髙羽には分からない。
ただ、口づけたあとに羂索に名前を呼ばれたことだけはおぼろげながら覚えている。
「……髙羽」
自分を呼んだときの羂索からは表情が消えていた。口づけたときの驚きなんてもうどこにもなくて、きっとあれは怒っていたのだ。
髙羽の記憶はそこで途切れている。
その後そのまま寝てしまったにせよ、重ねて何かやらかしたにせよ現状は変わらない。どちらにせよ、自分は取り返しのつかないことをしてしまった。
髙羽の人生でたった一つの奇跡があるのなら羂索との出会いがそうだった。
地下劇場でずっとくすぶっていた自分とコンビを組んでくれた人。どんなときも隣にいてくれた人。今までこんなに髙羽にもお笑いにも真剣に向き合ってくれた人はいなかった。
きっとこれからもいない。羂索以上に大切な人も、好きになる人も。
だから叶うわけがない想いを告げて羂索を失うくらいなら絶対に墓場まで持っていく。自分と一緒に墓に埋める。そのつもりだったのに──。
「こんなこと頼んでごめん……! でも頼むから忘れてほしい、お、俺に出来ることだったらなんだってする。本当にごめん……! 謝って済むことじゃないって分かっ、て……っ」
ただ黙って座る羂索に向かって髙羽はひたすら頭を下げ続けた。
ちゃんと言わなきゃいけないのに謝罪の言葉すら喉が詰まってまともに話すことが出来ない。本当ならこんなことを頼むことすらおこがましいと分かっている。現に羂索は未だ何の反応も返してくれない。頭を下げるばかりの髙羽には羂索が話を聞いてくれているのかどうかも分からなかった。もしかしたらもう自分の声すら聞きたくないのかもしれない。会話などしたくないのかもしれない。
後悔と恐れで身体が竦む。呆れる顔も怒った顔も何回もされたことがあるけれど、軽蔑の目で見られることだけは耐えられそうになかった。顔が上げられない。頼み込む立場なのだから一度はちゃんと目を見て話さなければと思うのに、どうやっても羂索の顔を見ることはできなかった。
忘れて欲しいなんて、ただただ髙羽にとって都合のいい言い分だ。羂索は自分と違って器用だから、昨日のことをすっかりなかったことにしてこれからも普通に接してくれるかもしれない。羂索の良心にすがってそんな自分勝手なことを願っている。
だって羂索は器用である以上にやりたくないことは死んでもやらない人間だ。髙羽ともうコンビなんか組んでいられないと思ったら、きっとあっさりいなくなってしまう。
それだけは嫌だった。だけど、嫌だと言える権利などいまの髙羽には一つもない。
賞レースで酷評されて泣いて羂索と帰った冬の空気。ロケ帰りに一緒に食べたお好み焼きの味。ぼろアパートでくだらない話をしながら雑魚寝した夜の音。いつも隣にあったあたたかさ。
他人から見たらきっとどうでもいいような日々の欠片たち。でも髙羽にとってはひとつひとつが大切で、ひとつひとつが寂しさで凍えていた心をあたためてくれた掛け替えのないものだった。それをぜんぶ自分が台無しにした。もう今までと同じ温度で増えることはないふたりの思い出──。
断頭台に上がるような気持ちで髙羽はただひたすらに羂索のこたえを待った。静かな部屋に時計の音ばかりが響いていく。
「……分かった」
しばしの沈黙のあと、大きな息を吐いてからようやく羂索が口を開いた。呆れたような息の音に髙羽の身体がびくりと震える。
「君に出来ることならなんだってするんだよね? それって君の出来る範囲でなら欲しいものも何だってくれるって考えでもいい?」
「い、いい……っ」
確かめるように問う羂索に喉を詰まらせながらも、なんとか髙羽は言葉を返した。
お金も地位もない自分に何があげられるか分からないけれど、羂索が望むならすべて差し出す。羂索にはその権利がある。
「……とりあえず、顔上げてもらってもいい? ちゃんと目を見て話したい」
羂索がどんな顔をしているのか見るのがこわい。何を言われるのかこわい。でも、ずっと逃げるわけにはいかなかった。どんな結果になるにせよ、羂索の言う通りちゃんと目を見て話さないと。
固まって動かない身体になんとか力を入れて、髙羽はおそるおそる顔を上げた。
「──髙羽」
だけど、視線を上げた先にあった羂索の顔。そこには髙羽が想像していたものは何ひとつなかった。
怒りも、嫌悪も、蔑みも。
あったのはただ真摯に髙羽を見つめる瞳だけ。熱を持った羂索の瞳だけ。
まったく頭になかった羂索の様子に思わず言葉を失くす。床についたままの髙羽の左手を羂索が恭しく取って薬指に触れた。
「ここに指輪を贈る権利が欲しい」
「…………え?」
「私に君をちょうだい」
羂索の指先が髙羽の薬指のつけ根を撫でる。ゆっくりと手のひらごと掬われて、さっきまで撫でられていた場所に羂索の唇が触れる。
一瞬、何をされているのか分からなかった。
理解した途端、熱と混乱がぶわりと髙羽の中を駆け巡った。
「……け、羂索っ……俺、忘れてって、忘れてって言った……!」
まるで想定していなかったことの連続と、ちっとも頼みごとを聞いてくれない羂索に髙羽の目に涙が滲む。
悪いのは自分なのだから羂索にこんなことを言うのはお門違いなのだけれど、昨夜のことだけでも限界に近かったのにいま目の前で起きたことで髙羽の頭はパンク寸前だった。
分かったと言ったのに忘れてくれない羂索も、こんなことを言い出す羂索も、なんでこんな状況になっているのかも、髙羽にはなにひとつ分からない。
だけど、目を潤ませて混乱するばかりの髙羽に羂索は静かに言葉を続けた。
「言ったね。うん、だから君の告白は忘れてあげる。でも君の告白を忘れることと私が気持ちを伝えることは全く別の問題でしょ。君の気持ちを知っていようが知っていなかろうが関係ないんだ。私がそうしたい。私がこれからも君と一緒にいたい。正直、君の隣にずっといられるなら相方でも伴侶でも名前はなんだっていいんだ。ただその名前が二つあるなら二つ欲しい。誰にも譲る気はない。君の隣にいる権利はすべて私のものなんだから」
「で、でもさ……!」
「そもそも忘れて欲しいなんて簡単に言うけど、人間の記憶なんてスイッチひとつで消えるようなそんな単純なものでもないし、私と君の気持ちだってなかったことに出来るものでもないだろう」
「……そ、それは……そうだけどっ」
「あとひとつ訊きたいんだけどさ」
丁寧に数えるように詰められて髙羽はさっきとは別の意味で泣きそうだった。まるで自分が幼子になったような気持ちになってくる。
実際、羂索にはそう見えていたのかもしれない。
だって、そのあと髙羽にかけられた羂索の声は頑是ない子どもに接するようにやさしかった。
「君が私のことを好きで私が君のことを好きなのに、君の告白忘れなきゃいけない理由なんてある?」
ぐしゃぐしゃだった髙羽の頭に羂索の言葉がじわじわと染みていく。
自分の気持ち、羂索の気持ち、それ以外に大切なものってなにかあっただろうか。自分が羂索を好きで、羂索が自分を好きで、それで自分の気持ちを忘れてもらわなければいけない理由ってなんだろうか。
混乱してまともに働いていなかった頭をなんとか動かしてみる。
でも、何度考えても忘れなきゃいけない理由は何ひとつ浮かばなかった。
「あ、あれ……? ……た、たしかに……ないのかな……?」
「ないよ」
髙羽が不安に思いながら出した結論を羂索が肯定する。
「だから、髙羽史彦──」
羂索の指がもう一度、髙羽の左手の薬指に触れて撫でた。
じん、とそこだけが痺れる心地。
火傷したように触れられたところがじりじりと熱を持つ。
「私に君をください」
羂索の目が、羂索の声が、羂索の体温が、固まっていた髙羽の心をほどいていく。
目の奥が熱くて、羂索の姿がぼやけてゆがんだ。
「私のものになってよ、髙羽」
羂索の言葉がゆっくりと髙羽の身体の中を落ちていく。落ちた先でとすん、と跳ねたそれが軽やかに弾けて真っ暗だった胸の内を明るく照らした。
絶対そうだと思っていたこと。あり得ないと最初から諦めていたこと。どれも髙羽の思い込みでそんなものは初めからなかった。
羂索が自分に望んだもの、羂索が欲しいと言ったものがようやくちゃんと分かって髙羽の喉が震えた。
引き攣って、ひっくり返って、出てきたのはみっともない声。
「な゛る゛っ゛、お゛れ゛け゛ん゛し゛ゃ゛く゛の゛に゛な゛る゛ぅ゛」
羂索の胸に飛び込んで、抱きついて、抱きしめられて、髙羽はぼろぼろと泣いた。
今まで堰き止められていた羂索への思いが溢れたように、それは長いあいだ髙羽の頬を濡らして止まなかった。
○
自分を包む温度に促されるようにひとしきり泣いたあと、髙羽はずびずびと鼻を啜りながらようやく羂索の肩から顔を上げた。ずっとくっついて泣いていたせいで、羂索の肩口は濡れて色が変わっている。
申し訳なさと幸福感で何を言っていいのか分からずまごついていると、慈しむように羂索が髙羽の頬に触れた。
「あーあ、君ちょっと泣きすぎじゃない」
目まっ赤、と髙羽の涙を拭う手は言葉とは裏腹にとてもやさしい。
「だって……コンビ解散して二度と顔も見たくないって言われると思った……」
「そんなわけないでしょ。あとその様子だと君からキスされた後に、私からキスしたことも舌入れたことも覚えてないよね」
「……は?」
羂索の言葉で今までのしっとりとした空気が一瞬で消し飛んだ。
「な、な、な、なにしてんのオマエ……!!」
「好きな相手からキスされて、なおかつ君も私のこと好きだって分かってるのに舌入れない理由ある? むしろキスしてる途中で寝落ちした君に最後まで手を出さなかった私の理性を褒めるべきだよ、ここは」
いっさい悪びれず、私いい子だったでしょう? と言わんばかりの羂索を相手にしているとなんだか自分の方が間違っているような気がしてくる。褒めるべきかなぁ、褒めるべきかも、いややっぱり違うだろ。
寝落ちした自分は確かに悪いが、そこは止めるのが大人の良識というものではないだろうか。罪悪感が全くないとは言わないけれど。自分が完全に据え膳と化してたのは確かに事実だけれども。人として超えてはいけない一線というものがある。でもやっぱり少しは褒めてあげたほうがいいのかなぁ、とそんな埒も開かないことをぐるぐると考える髙羽の腕を不意に羂索が掴んだ。あれ? と思ったときにはもう全てが遅くて、気づけば髙羽に見えるのは羂索と天井だけなっていた。
「というわけで、昨夜から不完全燃焼でいらいらしてるんだ」
それはいらいらではないのでは……? そう言いたかったが、にっこりと大変いい笑顔を浮かべているくせに地響きのしそうな圧を背負う羂索に全く言葉が出てこない。
両手を上げて降参のポーズをしたいけれど腕が掴まれていてそれも出来なかった。というか、今の体勢がほぼそれに近いのだからこれ以上降参のしようもない。
「け、羂索さん……?」
心の準備も必要だけど、もしそれが駄目ならせめて身体の準備くらいはさせて欲しい。そう思って名前を呼んでみたが、やっぱりいい笑顔の羂索は話を聞いてくれなかった。
「じゃあ、お互いの気持ちも確かめ合ったことだし改めて初夜ということで」
そのあとどうなったかは二人だけのおはなし。
ただその日の夜、髙羽の左半身にびっしり付いた紅い跡を見て羂索は満足そうに笑っていた。
20240209