はつこいクレイジー

「羂ちゃーん!」
 通勤ラッシュもとっくに過ぎた平日の駅前。
 待ち合わせ場所である改札の前で、遠目に羂索を見つけた髙羽が笑顔で大きく手を振っていた。
「悪いね、待った?」
「うんにゃ、ちーっとも」
 羂索の問いかけに髙羽がはにかむような笑みをこぼす。その顔にどことなく気恥ずかしさが滲んでいるのは、今日のこのシチュエーションゆえだろうか。
「なら、よかった。それじゃあ行こうか」
 目的地である郊外の緑地公園はここから歩いて十五分くらいだ。連れ立って歩く二人の間を花風が通り抜ける。
 春が来た。
 髙羽と出会って、相方となってから何度目かの春。
 一緒に暮らすようになってから二度目の春。
 ──相方兼恋人となってからは、初めての春だ。

「……いいなあ」
 きっかけは、BGM代わりにかけていた朝のニュースだった。
 小さくぽつんと落ちた声にキッチンで珈琲を淹れていた羂索がリビングの方を振り返ると、髙羽がローテーブルにぺったりとくっつきながらテレビを見ている。
 なんとはなしに視線をそのままテレビにやれば、そこにはお花見のニュースと「今日はお花見デートで──」などと言いながら桃色のオーラを撒き散らすカップルの姿があった。
「花見が? それともデートが?」
「うぇっ!? け、羂ちゃん、き、聞こえてた……?」
 淹れた珈琲を手に髙羽の斜向かいに座りつつ訊ねるとびくりと髙羽の肩が跳ねた。どうやら声に出したつもりも聞かせるつもりもなかったらしい。
「あれだけ聞こえよがしに言っておいて聞こえてたも何もなくない?」
「俺、そんなに大きい声で言ってた……?」
「私と君の関係において声が大きいとか小さいとか関係ある?」
 聞こえる聞こえないに声の大小関係ないことあるぅ!? と、誤魔化すようにことさら騒ぐ髙羽はそこに秘められている意味に気づいていない。髙羽の声だから聞こえたのであって、聞こえたのが有象無象の声だったなら例え百デシベルオーバーでも素通りだ。カーペットに落ちた針の音並の小ささでも髙羽の声だったら絶対に拾うのが羂索である。これを髙羽愛がすごいなあ、と思うかこわいなあと思うかは人による。ちなみに大体の関係者やファンは後者になる。
「で、どっちなの?」
「な、なぁにがかなぁ?」
「この後におよんで誤魔化せると思ってるその馬鹿さ加減は嫌いじゃないけど、それが私に通用したことあった?」
「ないです……」
「で、お花見とデート、どっちの話?」
「えっと、その……りょ、両方……」
「じゃあ行く?」
「へ?」
「お花見デート」
 い、行く!! と、驚きとそれ以上のよろこびを纏いながら即答する髙羽の後ろにぶんぶん揺れる尻尾の幻を見て、羂索は思わず吹き出すように笑った。
 せっかくお花見デートするんなら他にもデートっぽいこといっぱいしようぜ! お弁当作って、外で待ち合わせして、あっ前に先輩に聞いたんだけど郊外に良いお花見スポットあるんだって、近くにもっと大きな公園ができたおかげでそっちはあんまり人がいないみたいでさ等々、尻尾をふりふりあれをしたい、これをしたいと並べる髙羽に羂索から否やはなくトントン拍子にお花見デートの予定は決まった。
 残念ながら満開というには少し時期が過ぎてしまったが、その分ひとけも少し落ち着いているはずだ。町中を歩いていて囲まれるほどの知名度はまだないけれど、それでも人が少ないに越したことはない。ちょうど数日後にまるまるオフになる日があったのもタイミングが良かった。
 最近は芸人としての仕事でそれなりに予定が埋まるようになり、特にここ三週間くらいはありがたいことにスケジュール帳の空欄がほぼないような状態であった。その期間、大きな失敗やダメ出しもなくネタ作りも順調。だから、息抜きとご褒美もかねて思いつきでしてみた提案だったが、ここまで喜んでくれたのなら羂索としても気分は悪くなかった。なんならもっと早くしてあげても良かったな、と思った。釣った魚に餌をやるのってこんなに楽しいのか。
 釣った魚と書いて髙羽と読む。
 それ以外のルビがふられることは、まあ未来永劫ないだろう。
 
 平日の昼前ということもあり、大通りから一本外れた郊外の通りは静かなものだった。どこか近くに幼稚園か保育園でもあるのか、子どもたちのはしゃぐ声が微かに聞こえる。
 急ぐ道行きでもないのでのんびりと二人で目的地に向かいながら、さも今気づいたかのように羂索は髙羽の肩にかかったそれを指さした。
「そういえばそれ、もしかしてお弁当作ってきてくれたの?」
 それ、とは髙羽が持っている大きめのランチバッグだ。デート気分を盛り上げるため、せっかくだからと購入したランチバッグ。訊かずとももちろん中身は知っている。だって髙羽と一緒にお弁当を作ったのは自分だし。なんなら髙羽がそのバッグに弁当箱を入れるところまで見た。
 では、何故わざわざそんなことを訊いたのかと言えば、それはこの待ち合わせお花見デートというシチュエーションゆえである。
 言うなればちょっとしたごっこ遊びみたいなものだ。実際の羂索と髙羽はお付き合いどころか一緒に暮らしていて、ピンでの仕事を(羂索が)ほぼ断っている二人は家を出るも帰るも一緒。プライベートで出掛けるにしてもあえてデートなどと口にしたことはなく、況や待ち合わせをや、である。
 それを今日は待ち合わせお花見デートと称し、駅前を集合場所にしてわざわざ別々に家を出たのだ。羂索の方が先に家を出て、駅近くのコーヒーショップで待ち合わせ時間まで暇を潰し、時間になったら改札前で合流という徹底っぷりである。
 待ち合わせデートには、待ち合わせデートっぽい会話を。茶番といえば茶番だが、きっと髙羽はこんな茶番も楽しむに違いない。
 嗜虐心がくすぐられる困り顔や泣き顔も好きだが、別に笑った顔が嫌いなわけではないのだ。自分の言葉ひとつで子どもみたいに笑う顔は悪くない。茶番にとことん付き合うのも髙羽相手がだったらきっと楽しい。ほかの誰に頼まれても絶対にやりたくはないが、相手が髙羽だったら話は別だ。むしろやってみたいと思うから不思議である。羂索にとって髙羽はいつだって未知のかたまりだった。
 そしてそんな髙羽はといえば、羂索の答えの分かりきった質問に目をぱちりと瞬かせていた。
「へ、これ?」
 だが、すぐに羂索の意図を察したのか、ふへっと顔をゆるませる。
「へへへ~、うん、そう。羂ちゃんと一緒に食べたいなぁ、と思ってさ」
「結構大きいけど、こんなに一人で作るの大変じゃなかった?」
「そんなでもないかなぁ。羂ちゃんと一緒に食べるって思ったらいっぱい作るのも楽しかったし、それにけん、っ……さんも手伝ってくれたし!」
 一瞬、言葉に詰まったのは話す内容といまのこの茶番の状況に矛盾が生じることに途中で気づいたからだろう。わざわざ待ち合わせまでしたのだから、今日の二人は別々に暮らしているカップルの体である。一緒にお弁当など作れるはずもない。
 出てきた名前に若干引っかからなくもなかったが、こういうシチュエーションで髙羽に高いアドリブ力を求めるのがそもそも無理というものだ。妥協しつつ、わざとらしく「ケンさん?」などと訊いてみる。
「ええっと、ケンさんっていうのは俺と一緒に住んでる人で……」
「へえ、どういう人なの?」
「え、羂ちゃん聞きてぇの?」
「髙羽がどんな人と一緒に住んでるのか興味はあるね」
「う、ううん、そうだなぁ、…………よしっ、羂ちゃんがそんなに言うなら聞かせてしんぜよう! ……えー、どっから話そうかな、ケンさんはね──」
 曰く、ケンさんはこのまま芸人を続けていいか悩んでた時に出会って自分を拾い上げてくれた人であること。前のおんぼろアパートに住んでた時にストーカー被害に合いそうになったとき助けてくれたこと。それがきっかけで今一緒に住んでいること。ケンさんのネタへのダメ出しが的確すぎて凹む時もあるけどそれはちゃんと自分を見てくれているからなので、そのダメ出しも嬉しいこと。体調を崩したときに自己管理不行届きを責めながらも手厚く看病してくれたこと。しょっぱい卵焼き派なのに今日は自分の好きな甘い卵焼きを作ってくれたこと。エトセトラ、エトセトラ。
 羂索の日頃の行いのせいで、ほかの人に羂索の話をしても「まぁ、お前がそれでいいんなら別にいいけど……」と微妙な反応を返されることが大半の髙羽は、たとえ本人相手だとしても羂索の話をできるのが嬉しいらしく話が尽きることはなかった。そのせいかケンさんがどんな人かという話ではなく、だんだんケンさんのどんなところが好きかという話になっている。ままごとみたいな茶番を挟んでいるせいもあってか、いつも以上に好意の表現も素直だった。
 ケンさんが、ケンさんと、ケンさんは──。
 止まることのないケンさんの話の裏にあるのは羂索と過ごした月日の長さである。どれも髙羽と自分との出来事であり、相方として恋人として二人が重ねてきた大切な日々だ。だから、愉悦を感じこそすれ不快に思うことなど何ひとつないはずなのだけれど──。
「ケンさんさ、口ではキツいこと言うけど、でも全部ちゃんと俺のためなんだよな。熱出したときおでこに当ててくれた手すごい優しくてさ、なんか泣きたくなっちゃった。他の人に色々言われることあるし、俺以外には分かりづらいのかもしれないけど、ケンさんのそういうところすっげぇ好きだなって思う」
 しあわせそうに笑う髙羽に、ぴしり、と羂索の中で何かが軋んだ。
 ──ケンさん。
 髙羽がいまその名前で話す人物は自分のことである。それは充分わかっている。そもそも自分から始めた茶番だ。それも重々承知である。
 だがしかし、髙羽が「ケンさん」の話をすればするほど羂索の不快指数が高まっていくのも事実であった。
 いつにも増して髙羽が素直なせいなのか、それともこうして髙羽の口を通して自分のこういうところが好き、みたいな話をこんな直接的に聞いたことがなかったせいだろうか。一緒に住んでいる相手の呼び名が羂索でも羂ちゃんでもないせいで、どうしても己が間男になったような気になってくる。
 その数々のエピソードをともに過ごした「ケンさん」というのが、ここにいる自分ではないというのなら今の自分は髙羽にとってどういう存在になるのか。ただの相方か? それとも間男か? 一緒に暮らしている「ケンさん」とこの場にいる自分、いったいどちらが恋人なのだ?
 そもそも名前がよくない。羂索でも羂ちゃんでも、イコール目の前の恋人ということになってしまうから咄嗟に「ケンさん」としたのは分かるのだが、よりによってその名前か。やっぱり妥協なんてするんじゃなかった。
 髙羽は羂索のことを想定して同居人の「ケンさん」のことを話しているのだが、どうしても頭に浮かぶのは髙羽の恩人であるケンさんである。
 地下劇場でうなだれていた髙羽に声をかけたのも、ストーカー被害にあいかけたとき助けたのも、体調を崩した時そばにいたのも、一緒に今日のお弁当を作ったのも、甘い卵焼きにしてあげたのも全部全部自分なのに。
 髙羽は羂索が振った茶番に乗っただけで、おそらくそんなに難しいことを考えているわけではない。しかし、髙羽が話すエピソードがなまじ自分との出来事であるために、エピソードごと寝取られたような気さえしてくる。
 そんな羂索の内心など露知らず、髙羽はいつもより三割増しでぱやぱやしながらケンさんの話を続けている。
「ケンさん」大好きオーラを出しているゆるゆるぱやぱやの髙羽が可愛いか可愛くないかで言ったら確実に可愛い。おかげで余計に腹が立つ。痘痕もえくぼ? うるさい、知るか。
 悪いのは髙羽なのか、それとも無駄に想像力がたくましい嫉妬深い自分なのか。どう考えても自分だ。だって、髙羽は羂索の話に合わせて、目の前の羂索に一緒に暮らしている羂索の話をしているだけなのだから。自分が振った茶番の結果生まれた髙羽と暮らす「ケンさん」に嫉妬するのは己でも阿呆だと思う。だけど、髙羽に関することになるとどうしても論理的な思考ができない。ムカつくものはムカつくのである。
 今日はとてもいい天気で、春の空気はあたたかくて、空は透き通るようなのに、羂索の気分はどこどこと下降していくばかりだった。
 止まることのない「ケンさん」の話にイライラとむかむかが増していき、自然と髙羽への相槌もおざなりになる。目的の緑地公園の入り口にたどり着き、あとは常緑樹に囲まれた遊歩道を抜けるだけだというのにその頃にはいよいよ羂索からは一言の返事もなくなってしまった。
 その段階になってようやく羂索の様子に気づいたのか、髙羽がこちらを窺うようにおずおずと顔をのぞいた。
「……えっと、羂ちゃんもしかして……機嫌悪い?」
「どうして?」
「え、いや、な、なんか返事もねぇし……眉間の皺がマリアナ海溝みたいになってるんで、すけ、ど……」
 どうして、なんて我ながらよく言えたものだ。髙羽に言われるまでもなく自分の顔なんて分かっている。今なら己がまとう陰の気だけで人を殺せそうだ。
 眉間の皺の原因もイライラとむかむかの理由も分かっているのに、羂索はどうしたらこれが収まるのかまったく分からなかった。
 だって、相手は非実在「ケンさん」である。
 相方であり恋人。髙羽の唯一無二のポジションを手に入れているというのに、なんでこんな気分を味わわなければいけないのか。恋は四百四病の外、と言うが想いが成就してまで適応されるなんて羂索は知らなかった。医者でも草津の湯でも治せぬこのイライラむかむかは一体どうしたらいいのだ。
 怒ればいいのか、悲しめばいいのか、感情の行き場すら分からなくて途方に暮れる。
「髙羽はさ、その一緒に暮らしてるケンさんのこと好き?」
「へ? そりゃもちろん好きだけど」
「……じゃあ私のことは?」
「えっえっえっ、なになになになに突然どうしたの羂ちゃん……!」
 羂索の不機嫌の理由も質問の意図も分からない髙羽は、すわ自分が何かやらかしたのかとあたふたと狼狽えている。
 自分が原因で慌てふためく髙羽を見るのはいつもだったら楽しいはずなのに、今はちっともおもしろくない。
「……不愉快だ」
 こんなこと髙羽に言ってもしょうがないだろ、と冷静な自分が声を上げる。
 理屈の合わぬ言い分に、もし自分がそんなことを言われたらきっと鼻で笑う。
 だけど、一度こぼれた思いは流れ出すと止まらなくて、頭で考えるより先に口から出ていった。
「髙羽と一緒に暮らしているのは私なのに」
「うん……? そうね?」
「君の看病をしたのも、今朝一緒にお弁当を作ったのも、甘い卵焼きにしてあげたのも私なのに……」
 ──ほかの誰でもなく、それは私と君のことなのに。
「私じゃない誰かと君が暮らしてるなんて、そんなの……考えることすら堪えられない」
 ぽつりと落ちた声はまるで親と逸れた幼子のようだった。
 普段の自分とはかけ離れすぎて、あまりの滑稽さに笑いさえ出ない。
 人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である、とはよく言ったものだ。いっそ自分でも笑えればよかったのに。
 こんなことを突然言われて髙羽はどう思っただろう。理屈も論理もない言い分に呆れるだろうか、笑うだろうか。
 かっこわるいの極地にいる羂索にこれ以上言葉はなく、ただただ髙羽から逃げるように視線を下げるだけだった。本当に、今の自分は最高にかっこわるい。
 果たして応えはため息か、笑声か。
 永遠にも感じた数瞬の間のあと、しかし聞こえてきたのはそのどれでもなかった。
「……ん? んんん?」
 返ってきたのは疑問符ばかりがついた声。
 予期せぬ反応に思わず訝しみながら視線を上げれば、髙羽は難しい顔をして何故か眉根を寄せていた。
 ……おい、ちょっと待て。
「…………つまり、どういうこと?」
「あのさぁっ、君なんでここまで言って分からないわけ……!?」
「いや、なんとなくは分かるんだけどあまりに突拍子もなくて果たしてこれが答えでいいのかな、と」
 いやだって羂ちゃんじゃん。いつも理屈と理論と正論で俺で楽しく遊んでる羂ちゃんじゃん。ほんとに? ほんとにこれで合ってる? 
 と、言葉の代わりにすべてを語る表情に、いいからとにかく言ってみろと視線で促すと髙羽はおずおずと口を開いた。
「その、つまり、羂ちゃんは俺の話の中の俺と同居中の羂ちゃんに嫉妬してた……ってこと、でいいでしょうか……?」
「………………五十点。羂ちゃんじゃなくてケンさん」
「いやまぁ、ややこしくなるから呼び方はそうしたけどでも羂ちゃんの話じゃん」
 そう言われればぐうの音も出ない。子どもの嫉妬だってもうちょっと理屈が通るだろう。改めて指摘されると本当にガキ以下で嫌になる。
 自己嫌悪に陥った羂索が拗ねたように口をつぐんでいると不意にふはっと息がこぼれる音がした。
 この場に合わぬ吹き出すような音の出どころを見れば髙羽がころころと笑っている。
「羂ちゃんさ、たまにすごいぽんこつになるよな」
「はあ?」
 ぽんこつ。言うにこと書いてぽんこつ。笑うのは百歩譲るとしても、それが自分でもままならぬ感情に身を焦がしている恋人に言う言葉だろうか。
 その原因が非実在「ケンさん」とは言え、やさしさの欠片もない。恋人だったらやさしく慰めるのが筋ではなかろうか。誰のせいでこんな気持ちになったと思っているのだ。自分だ。
 髙羽にはぽんこつ呼ばわりされ、初めて味わう感情に振り回されて、この茶番の行き着く先が今の自分だというのなら今日は最高のコントが出来上がったはずだ、と羂索は思った。
 これをネタにして一本書いたら報われるだろうか。せめてネタとして消化したい。でもどう足掻いても自分の傷を広げるだけになりそうな気がする。こうなったらもはや穴を掘って埋まるしかないのでは。自分が穴に埋まったら三年間影武者を立て、……いやいや影武者はまずい。自分以外の誰かが髙羽の隣に立つだけでも許せないのに影武者などもっての他である。ならやっぱりコントのネタにするしかないのか。
「羂ちゃん、羂ちゃん」
 ──と、彼我に思考を飛ばしていた羂索を髙羽の声が呼び戻す。
 なんだ、これ以上何か言うつもりか。ぽんこつ呼ばわりしたことを私はまだ許してないぞ。それ相応に私を慰める算段をつけてから口を開け、というようなことを言おうとした羂索のくちびるに、ちゅっと軽く何かが触れた。
 思いがけぬ感触に何が起きたのか分からず、目を瞠る羂索の瞳に髙羽の伏せたまぶたが映る。
 あたたかくて、ちょっとだけかさついたそれ。何が触れたのか羂索が理解するよりも先に、それは呆気なく離れてしまった。
「……なんで今キスしたの?」
 珍しく髙羽からおくられたキスに加え、どうしてこの流れでキスをされたのかも分からなくて思わず表情が抜けた。
「いや、ぽんこつ羂ちゃんと自分にやきもち焼いてる羂ちゃん可愛くて? あとなんか慰めろって顔してたからちゅーしてよしよししてあげようかと」
 はい、羂ちゃんおいでーと羂索を抱きよせながら、よしよしと背中をたたく手はひどく優しかった。
 ふざけるな、こんなことで誤魔化されると思うなよ、と思う頭とは裏腹にあたたかな感触が背中にふれるたび、ざらついていた羂索の心が凪いでいく。
 ちょろい。我ながらちょろすぎる。確かに慰めろとは思ったけれど。かなしいくらい髙羽の手のひらの上で転がされている。なのにそれがちっとも嫌じゃない。本当に髙羽といると初めてのことばかりだ。
 髙羽への想いが溢れてきゅうっと胸が痛くなる。なんだかたまらなくなって首筋に顔をうずめると自分と同じシャンプーの匂いがした。
 抱きしめて深く呼吸をすると腕の中の身体がちいさく身じろぐ。おそらくくすぐったかったのだろうけれど、知るかそんなこと。元はといえば抱きよせた髙羽が悪いのだ。だから最後まで責任を果たすべきである。それが勤めというものだ。
 間違っても腕の中から逃げないようにぎゅうと力をこめる。
 すう、はあ。やっぱり不思議だ。落ち着く。なんでだろう、さっきまであんなにむかむかしてたのに。
 ひとしきり深呼吸をして身体を髙羽で満たすと、ようやく羂索は腕をゆるめた。顔を上げた羂索を見て髙羽が満足げに笑っている。
「うん、マリアナ海溝なくなったな」
 仕上げとばかりになだらかになった眉間を髙羽が指で撫でた。
「……君さ、ときどきすごく大胆になるよね」
 いま周りには二人以外だれもいないとはいえ、ここは公園の入り口で公共の場だ。
 初めてと言っても過言ではない髙羽からのキスに嬉しい気持ちと感動にも近い驚きが羂索のなかで渦を巻く。
 スキンシップは過剰なくせにキス以上となると途端に身体を固めるいつもの髙羽はどこに行ってしまったのだろう。
「そりゃ俺だって人並みに羞恥心あるからわざわざ人目があるところでいちゃつこうなんて普段は思わないけどさぁ、」
「…………人並みの、羞恥、心?」
「だまらっしゃい! だからあれは俺のヒーローで…………って、あーもう茶化すなよ、話がずれる! いいから最後まで聞け! 俺はいま大事な話をしてるの!!」
 ぱちんと、羂索の顔を両手で挟みながら髙羽がこちらを見つめる。
「あのさ、俺だって羂ちゃんのこと好きなんだからな。今まで誰かと付き合った経験とかないし、こういうことするの羂ちゃんとが初めてだから慣れてなくて羂ちゃんにばっかりさせちゃってるけど、俺だってしたくないわけじゃないよ。いやまぁ、だったら普段からもっとしろって話なのかもしれないけど、羂ちゃんとちゅーするとこうふわふわするっていうかぞわぞわするっていうか、ちゅーしてるときの羂ちゃんなんかギラギラしてるから余計にわけ分かんなくなっちゃうっていうか……あ、でもそれがヤダっていうんじゃなくて、」
「髙羽、髙羽、話がずれてる」
「……あ、う、ええっと……、だからその……」
 話してて段々恥ずかしさに襲われてきたのか髙羽の顔がじわじわと赤くなっていく。
「~~~~っなにが言いたいかっていえば恋人が凹んでたら俺だってちゅーくらいするよって話!」
 以上、終わり! と締めたあと最後に髙羽はぶちゅっと羂索に口づけた。
 勢いで照れくささを誤魔化しながら、やーもう恥ずかしーと髙羽が逃げるように先を行こうとする。その腕を咄嗟につかまえて名前を呼ぶと、まだ赤みの引かない顔で髙羽が振り返った。
「羂ちゃん、その、腕はなしてくんない……? なんか余計なこと言ったっていう自覚はあるので俺の気持ちを察して落ち着くまで少しでもお時間をいただけると、」
「……あのさ、やっぱり今日このまま帰らない?」
「は? なんで……!?」
 ここまで来て桜も見ずに帰ろうとする羂索に髙羽が声を上げる。
 桜まであと百メートルもないじゃん、遊歩道抜ければすぐよ!? せっかくお弁当作ったのに! と、抗議する髙羽は圧倒的に正しい。
「いやまぁ、そうなんだけどさぁ……」
 やっぱりだめかぁ、と項垂れるようにそのまましゃがみこむと、さっきまでの抗議も忘れて髙羽が気遣わしげにこちらを覗きこんだ。
「…………羂ちゃん、ほんとにどしたの? 大丈夫?」
 あ゛~~今すぐいちゃつきてえ~~~~、という言葉を何とか飲み込んだ自分はえらいと思う。多分そのまま口を開いていたら公園中に響く声が出ていた。
 初めての髙羽からのキスと豪速球のデレに身体は誤作動を起こす寸前である。身体、というか主に身体の下半分が。公共の場だから誤作動なのであって、二人っきりだったら別に正常な反応なのに。
「うん、まぁ、……なんとか大丈夫。ぎりぎり」
 下半身と折り合いをつけながら羂索はどうにか立ち上がった。
 ……まぁしょうがないか、今日の目的はお花見デートだったし。
 だがそれはそれとして帰ったらツケはきっちり払ってもらおう、とも羂索は思った。何事にも責任というものは生じるのだ。最後にまた楽しみをとっておくのも、まあ悪くはない。
 そう決めたらやることはひとつだった。
 あとに出来た楽しみに密やかな笑みを浮かべると、まずは当初の目的を完遂するべく羂索は髙羽の手を引いて歩き出した。


ぽんこつ羂索と自分に嫉妬する羂索が私は大好きです。

20240125